
さよなら尾藤さん
取り上げるのが少し遅くなりました。
私の第二の故郷・和歌山の箕島高校の尾藤公(びとうただし)元監督が3月6日、膀胱移行上皮がんのため亡くなりました。
■箕島率いて甲子園春夏連覇 尾藤公さん死去…68歳
■尾藤さんを悼む声、声…「こういう監督は二度と出てこない」
■東尾修氏「今も耳に残る“一緒に甲子園へ行こうや”」
体調がお悪かったことは以前から存じていましたが、訃報を聞いた時はやはりショックを受けました。
甲子園の名物監督・尾藤さん。
この方のファンは地元民だけではありませんでした。
おそらく全国で大勢の方が尾藤さんの死を悼まれたことと思います。
尾藤監督時代の箕島高校と言えば、やはり1979年(昭和54年)8月16日の箕島対星稜延長18回の試合が一番思い出に残っています。
当時、私は中学3年生で和歌山市内に住んでいました。
で、試合の当日、実は裏番組でアニメ「銀河鉄道999」を放送してまして(この日のタイトルは「嵐が丘のキラ」という話でした)、当時はビデオもないし、私は試合と999、チャンネルを小刻みに替えながら両方見ていました。
16回の表に星稜に1点勝ち越されて、あー、今度こそもうダメやわと、999に替えてしばらく見てて、でもやっぱり気になって途中で野球に替えたら、何か甲子園がすごい騒ぎになってる。
そう、森川くんがHRを打ったのです!やった!また同点!追いついた!
(森川くんのこのHRは、人工芝の縁に足を取られて転倒した星稜の加藤くんの逆ファインプレーによって生み出されたものでした)
実はその前の12回の攻防でも似たような場面がありました。
12回表に1点勝ち越された箕島は、その裏、嶋田宗彦くんがHRを打ち、試合を振り出しに戻したのです。
(ちなみに彼は捕手としてやがて阪神入り。後に弟でピッチャー章弘くんも阪神入りし、兄弟バッテリーが実現しました。宗彦くんは2軍コーチ、章弘くんはスコアラーとして現在も阪神で働いておられます)
試合は結局18回裏、上野山くんがサヨナラヒットを打ち、箕島の勝利に終わりました。
このものすごい試合は、今でも夏の甲子園史上最高の試合と呼ばれています。
(詳しくはWikipedia>箕島対星稜延長18回を)
尾藤さんと言えば「尾藤スマイル」で有名です。
私もニコニコ笑ってらっしゃる顔しかほとんど印象がありません。
もちろん練習中は厳しい人だというのは知っていましたが、勝ってる試合ならともかく、負けてる展開でも何でああニコニコできるんだろう?と子供心に不思議に思ったものでした。
実は「尾藤スマイル」が生まれるには、こんなエピソードがありました。
私自身、知ったのは、だいぶ後になってからですが…。
・Wikipedia>尾藤公より
・毎日新聞3/7付より
公立校で甲子園春夏連覇したのは箕島だけです。
今や私立全盛期ですし、もしかしたらこの記録が塗り替えられることはもうないかもしれません。
てか、記録より何より、私はやっぱり「尾藤スマイル」ですね。
「尾藤さんって有田みかん(地元の名産)みたいな顔してるよね~。笑うとよけい似てるよね~」と、妹とよく二人で言い合ったものです(^_^;
最後になりましたが、尾藤公さんのご冥福をお祈りいたします。
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私の第二の故郷・和歌山の箕島高校の尾藤公(びとうただし)元監督が3月6日、膀胱移行上皮がんのため亡くなりました。
■箕島率いて甲子園春夏連覇 尾藤公さん死去…68歳
■尾藤さんを悼む声、声…「こういう監督は二度と出てこない」
■東尾修氏「今も耳に残る“一緒に甲子園へ行こうや”」
体調がお悪かったことは以前から存じていましたが、訃報を聞いた時はやはりショックを受けました。
甲子園の名物監督・尾藤さん。
この方のファンは地元民だけではありませんでした。
おそらく全国で大勢の方が尾藤さんの死を悼まれたことと思います。
尾藤監督時代の箕島高校と言えば、やはり1979年(昭和54年)8月16日の箕島対星稜延長18回の試合が一番思い出に残っています。
当時、私は中学3年生で和歌山市内に住んでいました。
で、試合の当日、実は裏番組でアニメ「銀河鉄道999」を放送してまして(この日のタイトルは「嵐が丘のキラ」という話でした)、当時はビデオもないし、私は試合と999、チャンネルを小刻みに替えながら両方見ていました。
16回の表に星稜に1点勝ち越されて、あー、今度こそもうダメやわと、999に替えてしばらく見てて、でもやっぱり気になって途中で野球に替えたら、何か甲子園がすごい騒ぎになってる。
そう、森川くんがHRを打ったのです!やった!また同点!追いついた!
(森川くんのこのHRは、人工芝の縁に足を取られて転倒した星稜の加藤くんの逆ファインプレーによって生み出されたものでした)
実はその前の12回の攻防でも似たような場面がありました。
12回表に1点勝ち越された箕島は、その裏、嶋田宗彦くんがHRを打ち、試合を振り出しに戻したのです。
(ちなみに彼は捕手としてやがて阪神入り。後に弟でピッチャー章弘くんも阪神入りし、兄弟バッテリーが実現しました。宗彦くんは2軍コーチ、章弘くんはスコアラーとして現在も阪神で働いておられます)
試合は結局18回裏、上野山くんがサヨナラヒットを打ち、箕島の勝利に終わりました。
このものすごい試合は、今でも夏の甲子園史上最高の試合と呼ばれています。
(詳しくはWikipedia>箕島対星稜延長18回を)
尾藤さんと言えば「尾藤スマイル」で有名です。
私もニコニコ笑ってらっしゃる顔しかほとんど印象がありません。
もちろん練習中は厳しい人だというのは知っていましたが、勝ってる試合ならともかく、負けてる展開でも何でああニコニコできるんだろう?と子供心に不思議に思ったものでした。
実は「尾藤スマイル」が生まれるには、こんなエピソードがありました。
私自身、知ったのは、だいぶ後になってからですが…。
・Wikipedia>尾藤公より
>若い頃はスパルタ指導で鍛え上げたが、成績が伸び悩んだ1970年代前半に信任投票により一度監督を退く。その後はボウリング場に勤務し、その接客などで人間的にいろいろ学んだ。再び箕島高校野球部監督に復帰してからは、選手の助言もあって、練習の厳しさは変わらないものの試合中はいつも笑顔で接するようになった。それにより選手達はのびのびとプレーするようになったという。その微笑みは「尾藤スマイル」として高校野球ファンにおなじみとなり、上甲正典など他校の高校野球指導者にも大きな影響を与えた。
・毎日新聞3/7付より
>箕島では捕手で4番。近大で腰を痛め中退。3年間の銀行勤務を経て66年、23歳で母校監督に就任した。68年に初の甲子園出場。70年春には島本講平投手(元近鉄)を擁して初の全国制覇を成し遂げた。当時27歳。強引な面から周囲と衝突。部員の信任投票で不信任が1票あり監督を辞めた。ボウリング場で働き「謙虚になれた」。
>74年秋に監督復帰。77年春には再び全国制覇した。大会中、エラーした選手を笑顔で迎えると「監督が笑っていると力が出せる」と聞いた。「選手を許すことも大事」と気づき、鏡の前で笑う練習を行うなど「尾藤スマイル」が生まれた。
公立校で甲子園春夏連覇したのは箕島だけです。
今や私立全盛期ですし、もしかしたらこの記録が塗り替えられることはもうないかもしれません。
てか、記録より何より、私はやっぱり「尾藤スマイル」ですね。
「尾藤さんって有田みかん(地元の名産)みたいな顔してるよね~。笑うとよけい似てるよね~」と、妹とよく二人で言い合ったものです(^_^;
最後になりましたが、尾藤公さんのご冥福をお祈りいたします。
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